今年の夏、母方の祖母が亡くなり私の周りに昭和の戦争を体験した人間はいなくなりました。
戦争を体験した人から直に話を聞ける機会は、どんどんなくなっていきこれからの時代の人は物語や資料で学ぶようになるのでしょう!
そういえば、兄が夏の自由研究で祖父母の戦争体験をレポートしてまとめていたなーってのを思い出し(まとめたのは母で、兄はむりくりやらされてた思い出 笑)、引っ張り出してみました。
消えかかっている文字もあるので、この機会にここにまとめなおしたいと思います。
祖父母、大叔母さんの昭和戦争年表
父方の祖父母(おじいちゃん・おばあちゃん)、母方の祖母(ばあばあ)、母方の大叔母さんの戦争を生き抜いた人生年表です。
おじいちゃん・おばあちゃん・ばあばあは、東京(月島、渋谷、蒲田あたり)で過ごしました。
大叔母さんは、戦時中はなんと満州に渡っておりました。
それぞれ年齢や境遇が違うので、それぞれが同じ日をどう生きていたのかとても興味深いです。
これが現実にあったの!?ってほど酷い体験談が出てきますが、実際のお話なので見てってください。
西暦(元号) | 日本の動き | 世界の動き | おじいちゃん | おばあちゃん | ばあばあ | 大叔母さん |
大正15年生まれ | 昭和5年生まれ | 大正9年生まれ | 明治45年生まれ | |||
1927年(昭和2年) | 金融恐慌が起こり銀行や会社の倒産が相次いだ。 | |||||
1928年(昭和3年) | 張作霖が爆殺される(満洲国の統治者) | |||||
1929年(昭和4年) | ニューヨークで株価暴落 | |||||
1930年(昭和5年) | ロンドン海軍軍縮条約に調印 | |||||
1931年(昭和6年) | ★満州事変(日本と中国の武力戦争)
★五・一五事件(海軍将校たちが総理大臣を殺した) |
中国政府が満州事変を国際連盟に訴える。 | 2月に結婚したが夫がすぐに満州の中央銀行に赴任。
東京→下関→朝鮮釜山→新議州→ホウテン→新京という順路で満州に渡った。 |
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1932年(昭和7年) | 満洲国建国 | 12歳。
町内の人が兵隊に行くのを駅で見送った。 |
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1933年(昭和8年) | 国際連盟を脱退 | ドイツでは、ヒトラーが政権を握る。
アメリカでは、ルーズベルトが大統領になりニューディール政策を開始 |
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1934年(昭和9年) | ワシントン海軍軍縮条約を破棄。 | |||||
1935年(昭和10年) | ドイツがベルサイユ条約を破棄し再軍備を宣言。 | |||||
1936年(昭和11年) | ★二・二六事件
★満州へ移民開始
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12歳。大雪の日で戒厳令が出ており家から出られなかった。
二・二六事件に関して、何が起きたかわからなかった。 |
15歳。
渋谷に奉公に出ていた。 1m以上雪が積もり、剣付きの鉄砲を持った兵隊が立っていた。 新聞が読めないほど汚い活字になっっていた。 |
ニ・ニ六事件のことは新聞で知った。
朝日、毎日、日日新聞が届いていた。 |
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1937年(昭和12年) | ★日中戦争開始 | 〔中国〕抗日民族統一戦線を結成 | 日中戦争開始をラジオで知った。
義理の兄が出征。 食料には余裕があり日本が優勢だと思っていた。 |
兄が出征。
近所の人と幟を上げて、晴れ着を着て送った。 |
満州の生活は裕福だった。 | |
1938年(昭和13年) | 国家総動員法を公布 | 〔ドイツ〕オーストリアを併合 | ||||
1939年(昭和14年) | 国民徴用令 | ドイツ軍とソ連軍がポーランドに侵入 | 兄が負傷で帰還。
名誉の負傷ということで月島新聞に載った。 |
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1940年(昭和15年) | フランス領インドシナを侵略。
政府が解体し、大政翼賛会が成立。 米穀配給通帳制。 日ソ中立条約。
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イタリアが参戦。
ドイツ軍がパリを侵略しフランスが降伏。 ドイツ軍はロンドンの爆撃開始。 |
19歳。
6月に結婚 |
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1941年(昭和16年) | ★太平洋戦争始開始 | ドイツ、ソ連開戦。
米・英・中・蘭が日本を経済的に包囲。 |
16歳。
石川島乗船場で働く。 労働によって米の配給量が違った。 戦勝の報道が多く、日本の勝利を信じていた。 |
ラジオを聞きながら父と戦地図を見て、こんな大きな国に勝てる訳ないと思っていた。 | 長男出産。
太平洋戦争が始まると米にコウリャンなどが混ざるようになった。 大田区蒲田に住む。 |
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1942年(昭和17年) | マニラ・シンガポールを占領。
ミッドウェイ海戦に大敗。
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連合国軍の反攻が始まる。 |
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1943年(昭和18年) | 学徒出陣。
挑戦に徴兵令。 |
イタリア降伏。 | 3月長女を出産。
5月夫が出征。 夫を見送る時に周りの人から泣いてはいけないと言われた。 米がなくなり、闇米を買った。 |
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1944年(昭和19年) | 中学生の勤労動員令
★B29の本土襲撃が始まる サイパン島で敗戦。 食糧不足が深刻化。 学徒勤労令。 学童の集団疎開が始まる。 |
連合国がノルマンディーに上陸し、パリを解放。 | 19歳。
敵の飛行機が見えるくらい低く飛んでいた。 食料は尽きていなかった。 |
毎日空襲で焼夷弾や爆撃があられのように降ってきた。B29の音を覚えた。
グラマンの操縦士の顔が見えるくらい低く飛んでいた。
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1945年(昭和20年) | ★東京・大阪に大空襲
・米軍が沖縄を占拠。 ・広島に爆撃投下。 ・ソ連が対日宣戦。 ・長崎に原爆投下。 ★ポツダム宣言を受諾。 |
ヤルタ会談。
ムッソリーニ処刑。 ヒトラー自殺。 ベルリン陥落。 ドイツが無条件降伏し、東西に分裂。 |
20歳。
予科練を志願し三重航空隊奈良分遣隊に入隊下が、体重不足で戻された。 (予科練の試験内容は国語・数学・物理・科学で、九段中学で試験をした。) 3月10日、深川へ同僚を探しに行った。 辺り一面焼け野原で死体の山。 服も毛も無い女性の死体を見た。 死体だらけなので、踏んで歩かなければならなかった。 6月、再び予科練を志願し防府海軍通信学校に入校。 8月6日、広島に原爆が投下されたことを通信学校の校庭で聞いた。 この頃はもう食糧が不足していた。 |
15歳。
3月10日の翌日、焼け出された人たちが相生橋を渡って大勢病院に逃げてきた。 軍需工場が焼けて仕事を失った。 佃島にいたので強制疎開させられた。 疎開の汽車に乗る時、上野駅で家族とはぐれてしまい、記憶を辿りながら親戚の家までたどり着いた。 ラジオで敗戦を聞いた。 正直やれやれと思った。 |
3月10日の東京大空襲で焼け出されてカンパンを3袋もらった。
辺りは一面死体の山で、母のいる横須賀へ逃げた。 終戦時は組長から言われて近所中が集まって天皇の放送を聞いた。 アメリカ兵が来ると大騒ぎで、若い女性は横須賀から逃げた。 負けたと聞いた時は泣いたが、もう空襲が来ず夫が帰って来ると思うと嬉しかった。
終戦後が一番苦しかった。 小さい子供がいる人は育てるのが大変だった。 帰還兵が着くところに子供をおぶって毎日夫を探しに行った。 |
8月9日朝6時、ソ連の戦闘機が攻めてきた。
夫は残り、母と3人の子供を連れて着の身着のまま逃げた。 別れる時に夫からピストルを渡された。 日本人として恥じない死に方をするように子供から撃って、最後にこめかみを撃てと指示された。
新京に辿り着き、1年間暮らす。 パンを焼いて路上で売った。 八路軍と重慶軍が市街戦をし、ソ連軍が略奪した。 歩ける男はみんな連れて行かれ働かされた。 中国人は日本人に親切だったが、ソ連軍の酷さは許せない。 |
1946年(昭和21年) | 戦後 | 引き揚げ船(宵月)でコロトウから博多まで1週間かかった。
食料はカンパンのみ。
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1949年(昭和24年) | 夫の戦死の広報がきた。
サイパン島で玉砕。 |
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1956年(昭和31年) | 夫の戦死の知らせが届いた。 |
現代史には興味があって、色々な解説やドラマ、映画を見たけれど、改めて自分の身内が体験した話をまとめてみると鳥肌がたちました。
結婚していたばあばあと大叔母さんはどちらも夫が戦死しています。
この年表の登場人物はもうみんな亡くなっており、今はもう話を聞けません。
この話をそれぞれに聞いたのは中学生の頃です。
聞いておいてよかったなーと思いました。
私の身内は大叔母さん以外みんな東京にいたので、地方だとまた違った体験が聞けるんじゃないかと思います。
まだ祖父母が生きているって方は聞いておくと良いんじゃないでしょうか。
戦争中の手紙
ばあばあが旦那さんから戦時中にもらった手紙のコピーです。
無事入隊せり 喜べ
3日午後1時より終わりの面会有り
東京から浜松まで6時間くらいかかるが間に合ったら写真を持ってこい
覚悟が極まっていると思うがとにかく至急通知す
諏訪・山崎にも至急知らせ(電話にて)
前略
その後変わりはないと思うが、どうかお前はじめ子供達は皆丈夫か
天気の良い日には裸で表に出して日光浴させてやるよう、潤は寒風摩擦をさせるよう。
アサコ(ばあばあの妹)、しょうOO?は相変わらずか
お客様気分をとるようなことはないか?
食事も贅沢させるな
簡易保険の名義変更はしたか
ミシンは購入できたか?
すわ様にお願いして早くするように
当地は冬は非常に寒いそうだ
腹巻を頼む
持ってきた千人針は丸まってダメ
それから知人の住所を書いたものを送れ
昨夜初めて夢を見た
盛りだくさんの饅頭を潤坊が1つ早いとこ頬張って自分に叱られ、はにかんで振り返った顔がありあり見えて思わず笑ってしまった夢だった。
健康第一にせよ
ばあばあの妹夫婦も一緒に暮らしていたようで、お客様気分にさせるなと言うことが書いて有りますね。
当地とはどこのことなのか、聞いておけばよかったです。
千人針とは、「出征兵士の無事を祈るために、千人の女が一針ずつ、赤い糸で布きれに縫いだまを作って贈ったもの。」だそうです。
前略、この手紙は親切な古兵殿に頼んで出していただく手紙故 裏の住所、名前はデタラメのものだ
何故このようなことをするかと言うと金が必要なのだ
お前も承知していると思うが隊から出す手紙は全て検閲があるから金を送れとか見られて悪いことは書けないのだ
さて内地から大分小包が来るもう送れる筈だから、シャツ、腹巻、安全カミソリの刃至急送ってくれ
金は20円腹巻の中へお守りのように縫い込んで一寸見てもわからぬように送ってくれ たのむ
相変わらず元気だろうね
早く内地へ帰ってお前や潤と逢いたいものだ毎日考えているよ
しかし軍務には精勤している
同じに入ったもの中でもめったに負けぬ成績故安心してくれ
嫁と子供に逢いたいという願いがひしひし書いて有り、しかし会えずにサイパンで亡くなったと思うととても無念に思います。
もっとお手紙はいっぱいあったのですが、検閲で黒く塗られてたり、その後火事にあい全部燃えてしまったそうな。
まとめ
2世代前は、生きることに必死で悲しい思いや酷い体験をしてきたのだなーと思うと不思議ですね。
祖父母が生き抜いて、私まで命が繋がったことをありがたく思います。
おかげさまで、私は命の危険を感じることもなく自分のやりたいことであるバンドに邁進して毎日楽しく幸せですわ!!!
もうすぐ平成が終わるけど、本当に平和な時代でしたねー。
次の時代も戦争が起こらずに、好きなことをやれて好きな人たちと過ごせる世の中であれ!!!!!
ばあばあの波乱万丈な人生の事細かいことは、以前こちらに綴りました。↓ばあばあの波乱万丈な人生と血のロマンス!